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紀伊國屋書店

株式会社紀伊國屋書店(きのくにやしょてん、英称:KINOKUNIYA COMPANY, LTD.)とは日本の書店、出版社である。1927年(昭和2年)1月22日創業、1946年(昭和21年)1月16日法人設立。登記上本店は、東京都新宿区新宿三丁目17番7号(新宿本店)。本社事務所は、東京都目黒区下目黒三丁目7番10号。ナショナルチェーンとも呼ばれる日本全国に店舗をもつ有力チェーン書店であるのみならず、アメリカ合衆国・東アジア・オーストラリアにも進出している。

創業者の田辺茂一は、書店業界の実力者および文化人として有名であった。また、田辺の片腕として活動した松原治はその後、2012年に没するまで日本の書店業界の中心人物として活躍した。

紀伊國屋演劇賞を主催し、紀伊國屋ホール、紀伊國屋サザンシアターと劇場を2か所経営している。

出版部門は、人文書が中心である。他社において「営業部」「販売部」と呼ばれる出版営業を扱う部署は、「ホールセール部」と呼ばれる。

学術研究用に各種商用データベース (DB) の代理店もしており、1996年に一部のDBにつき丸善・Knight-Ridderと設立したKMKデジテックス(2000年にジー・サーチDialogサービス事業部が承継)に営業譲渡をした。2012年現在もOCLC FirstSearchなどについて提供中である。

社名の由来

創業者の田辺家の先祖は、紀伊徳川家の江戸藩邸に勤める足軽で、商売を営むことになった時に屋号として出身地にちなんだ「紀伊國屋」をつけたのが始まりである。最初は材木問屋だったが、その後炭問屋になり、田辺茂一の代で書店を開業して今に至る。江戸時代の豪商の紀伊國屋文左衛門とは、何の関係もない。

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創業者

紀伊國屋書店創業者の田辺 茂一たなべ もいち 本名の読みはしげいち、1905年2月12日 - 1981年12月11日)は、東京府出身の出版事業家、文化人。

東京・新宿にて、紀州備長炭を商う「紀伊國屋」の跡取りとして生まれる。祖先は紀州和歌山の出身。

私立高千穂小学校在学中であった、1915年の大正天皇の即位大典の日、父に連れられて入った丸善で洋書に魅せられて、書店経営を志すに至る。卒業後、慶應義塾専門部予科に入学。同級に演出家の大江良太郎がいた。1926年3月、慶應義塾高等部を卒業。1927年1月、新宿にて紀伊國屋書店を創業する。1928年、小学校の同級生だった舟橋聖一たちと共に、同人誌『文芸都市』を創刊。

戦災で大きな被害を受け、一時は廃業も考えたが、将棋仲間だった角川源義の励ましで事業を再開。1946年1月に法人化し、株式会社紀伊國屋書店に改組。それに伴って、同社代表取締役社長に就任。1950年、陸軍主計中尉あがりの松原治を経営陣に迎え、初めて経営が安定する。

これ以降、田辺自身はほとんど経営に関与せず、夜な夜な銀座に出現してバーからバーへと飲み歩き、華麗な女性遍歴を繰り広げて「夜の市長」と呼ばれた。

その傍ら、1964年には、紀伊國屋ビルに演劇ホール(紀伊國屋ホール)を設け、1966年には紀伊國屋演劇賞を創設するなど、文化事業に力を注いだ。

紀伊國屋書店には、自分好みの美少女を店員として置いて、若者達の気を引いた。田辺は、都会とは芸能や文化の集積ではなく、「そこへ行けば何かがある」と思わせる点が必要であると考えていた。

『芸者の肌』『おんな新幹線』『すたこらさっさ』『穀つぶし余話』など著書多数。大の駄洒落好きとしても知られた。また、文豪夏目漱石の次男で随筆家の夏目伸六の妻が原宿で経営していた「小料理 夏目」には、たびたび訪れており飲み代をつけにしていた。

1966年、随筆家の佐々木久子や石本美由起、杉村春子、灰田勝彦ら広島出身者や縁のある文化・芸能人が結成した「広島カープを優勝させる会」に、梶山季之の飲み友達だった関係で東京出身ながら参加した。優勝が実現したのは、ほぼ10年後の事だった。

1969年に公開された大島渚監督の映画『新宿泥棒日記』には、本人役で出演している。

1971年、荒木経惟が自身の実質的な処女作である「センチメンタルな旅」(自費出版)を紀伊國屋書店に置いてもらおうとしたときに、荒木経惟に序文を加えることをすすめ、「私写真家宣言」と呼ばれる文章が挿入される。「私写真」という言葉はここから生まれた。

1980年10月、株式会社紀伊國屋書店代表取締役会長に就任。

1981年10月、シュバリエ・デ・ザール・エ・レットル(フランス文芸勲章騎士章)受章。

1981年12月11日、悪性リンパ腫で死去。

逸話

  • 長男の田辺礼一はNHKのアナウンサーだったが、1981年、松原の招きで紀伊國屋書店に入社。専務を経て相談役となった。
  • 次のクラブに行く時に、ピーコに「(銀座の真ん中を)俺の鞄を持って、俺の前に立って『タナベモイチが通ります~、タナベモイチが通ります~』って言いながら歩け」と言い、声が小さいと「もっとおっきい声で!」と言い直しをさせながらも、本人は小声で「そこのけ、そこのけ」と並木通りからずっと歩いて(歩かせて)いたとのこと。元気な時には、「俺の葬式のとき、ピーコは駐車場で『こっちこっち』ってやる係だからな」「なんで! 私、駐車場でそんな事する係、嫌よ」「バカヤロー、森繁久彌だって下足番なんだぞ」との会話などもあったとのことで、ピーコは著書で「茂一ちゃんは困った人でもあったけど、とても可愛くていい人だったよ」などと述懐している。
  • 1980年頃、ラジオでインタビュアーに「炭屋の片隅ではじめた本屋が日本一の本屋になるような、そんな時代というのは、もう来ないんでしょうね」と問われ、「何でも時代のせいにしてりゃあ、そりゃあ楽だわな」と答えている。
  • 「茂一のひとり歩き b/w 茂一音頭」という曲を吹き込み、レコードリリースしている。
  • 田辺に目をかけられた立川談志は、彼の死後に『酔人・田辺茂一伝』を書いた。
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